牧師からのメッセージ
新型コロナウイルス感染症の拡大―――この時を危機として受け止めると共に、自らを省み、主と対話しながら、この世界を生きる勇気、主の知恵、主のメッセージに耳を傾け、心と身体と魂を養う時としていただきたいと願います。
明けない夜はありません。どのような時にも、不安と恐怖が終息する時が来ます。それまでは苦しいですが、その時が来るのを信じて、みんなで助け合っていきましょう。
お一人お一人が、ご家庭が、職場が、神様の守りと平安に満たされますようにお祈りいたします。闘病している方、医療関係者、そして影響を受けているひとりひとりの心と体を、神様が守り、養われますように。
久ヶ原教会牧師 藤崎義宣
家庭礼拝のしおり・黙想のすすめを掲載いたしました。(PDFファイルです。)
「天の国」とは?
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイによる福音書13章44節)
「天の国」は聖書では「神の国」とも呼ばれ、主なる神が支配するところ、あるいは神のいのちが充満しているところであるといわれます。 最初の人であるアダムの反逆(自らが神のようになりたい欲望)以来、人類は楽園を追放され、天の国、神の国から切り離され、疎外の状態に置かれました。
この聖書の箇所は、イエス・キリストが人間が失ってしまった天の国、神の国について「たとえ」で語った部分です。「たとえ」「連想」「想像力」は、「天地創造の時」つまり神の創造力の源へとたどりつく鍵なのです。「たとえ」は味わい、噛み締め、こころのなかで膨らんでいくときに、知恵と自由の味わいをもたらします。
聖書の「たとえ」を味わっていくとき、わたしたちはいろいろなものに気づき、世界の見方が変わり、こころの世界が多様になり、豊かになります。 わたしたちにとって生きるうえで重要なのは、この世界をどのように見ているか、またこの世界をどのように体験しているかなのです。
わたしたちがこの世界を体験するのは、自分のこころの目、またこころが味わう感触によってです。このたとえは、「畑に宝が隠されている」と言っています。畑はありふれた日常のものであり、土に関係する穢れたものです。およそ宝物をしまっておくにはふさわしくない場所に隠されています。この場所に宝を発見した人は、びっくりしたにちがいありません。
価値観がひっくり返り、ある意味では世界が変わるのです。 この発見は大いなる喜びをもたらします。
畑に宝が隠されていることを発見した人は誰でしょうか。神さま、あるいはイエス・キリストかも知れません。とすれば、この畑は、わたしたち人間でしょう。
人は神の似像(にすがた)として創造されたと聖書は記しています。(創世記1章26節)神の似像は隠された人間の本質であり、宝なのです。
不思議なのは、隠された宝を発見した人はこの宝だけを掘り出して持ち帰るのではなく、畑全体を手に入れようとすることです。もしかすると宝を発見した人にとって大事なのは、人間のうちにある神の似像の一部分だけではなく、醜い中にも宝物を宿している人間の全体なのかもしれません。
畑としての人間は、そのなかに良いものも悪いものも含んでいます。罪も病もまた邪悪さすらもっています。また汚れ、傷ついている部分もあります。神あるいはキリストに畑として所有されるとき、これらがあたらしいいのちを宿す土壌としての可能性と役割をもつのです。 畑に神のことばの種、福音の種が蒔かれるとき、そこは命の木が生え育っていく創造と救済の場所となります。
命の木、それは人類にとって失われてしまった楽園の中央に生えている木であり、生命の本質を象徴するものです。
命の木を育む可能性をもった畑としての人間を自分とほかの人のなかに見つけ出すとき、天の国は遠い遠い存在ではなく、その人の中で動き始めるのです。
宝が隠されている畑の正当な所有者になろうとするには代償を払う、あるいは犠牲を払うことが必要です。「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」ほどの値打ちがあります。
それゆえに、神は愛する独り子のキリストを、わたしたち人間という宝が隠されている畑を買い取るために、高価な犠牲として支払われたのです。この宝はすべての人の中に見出されるべきものです。